第6章 バンドンへのレリースの旅
レリースのバンドンへの旅もまた、負けず劣らずスリリングなものでした。父親の勧めでアドベンチスト病院の看護学校への誘いを受け入れることを決めた後、彼女は友人のダメ・ポハンと共にメダンで本の販売活動を行いました。父親は、レリースがバンドンに行く気になるようにと、本の販売を許可したのです。メダンにいた時、彼らはジャカルタ行きの船のチケットを探し、ついにレリースと友人はチケットを手に入れ、船でジャカルタへ出発しました。
レリースのバンドンへの旅は、ペリーよりも順調に進むはずでした。なぜなら、彼女の親戚、つまり母親の兄弟が、ジャカルタのセネンに住む比較的地位の高い軍人だったからです。レリースは事前にその親戚に連絡を取っていたので、タンジュン・プリオク港でその親戚の子供に迎えに来てもらい、数日間その親戚の家に滞在しました。
レリースの父親は、バンドンの服装は故郷とは違うかもしれないから、服を持っていくよりもバンドンで買った方が良いだろうと言いました。そこで、父親は彼女に約5,000ルピアの旅費を持たせました。しかし、1959年8月にジャカルタに到着してすぐ、レリースは大変な衝撃を受けました。高額紙幣が10分の1の価値に切り下げられるという出来事(つまりデノミという通貨切り下げ)が起こったのです。突然、レリースは故郷から服を持ってきていなかったにもかかわらず、服を買うのに十分なお金がなくなってしまいました。服を買うどころか、バンドンに行く費用さえなくなり、さらに3ヶ月の試用期間に合格しなかった場合に、バンドンのアドベンチスト病院に預けなければならない1,000ルピアの費用も残っていませんでした。レリースは非常に悲しみ、ジャカルタに着いたばかりで、デノミが何なのか、なぜ起こったのか全く理解できませんでした。レリースは途方に暮れました。
幸いなことに、最終的にその親戚がジャカルタからバンドンへの旅費を貸してくれました。こうしてレリースはバンドンに到着し、当時バンドンのアドベンチスト病院看護学校を卒業していたコスティ・シトルスの家にしばらく滞在しました。その後、レリースは寮に入り、バンドンのアドベンチスト病院で教育を続け、看護師として卒業することができました。